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It's penalty life

2006-07
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私、今、現実、神

「私・今・そして神 開闢の哲学」:永井均

 私、今、現実、神……世界の内部で理解されるなら、それらはつねに、もし世界内の一存在者でないとすれば何も連動していない歯車にすぎない。だからもちろん、そんなものは存在しないとつねに言える。しかし、通り越して短絡させることができる、機構全体とまったく繋がっていない、その歯車こそが、その機構全体をはじめて現実に存在(つまり実存)させているのだ。
 それがすべての開闢であると同時に、そんなものはどこにも存在しない。すなわち、そんなものはどこにも存在しないと同時に、それがすべての始まりなのである。

-----------------------------------------------------引用ここまで


 独我論はデカルトの有名な「我思う、故に我あり」で認識されるが、それが自分以外の他者に理解された時点で「ある人思う、故にある人あり」として理解される(私がデカルトの言語を理解している時点で既にある人に変換されている)。だとすれば、本質的に独我論が他者に理解されることはない。これは言語の限界を越えた範囲である。

 著者が本文において、次のように述べている。
「言語は私的言語であっても、それが可能である限り、どこまでも同格の他者の存在を、つまり対称性を要件としている。すなわち、語られた内容と理解される内容の一致、という要請である。本質的にそれを否定するような事実を、言語はどこまでも描き出すことはできない。」

 ここに私的言語の不可能性がある。どこまで私的言語を述べても、他者理解を前提とした言語を使用してしまうために私的にはなりえない。なぜなら、どこまでも自己との対称性を満たす他者存在は存在しえないからだ。

 今は著者が何が言いたかったのかは表現ができない。ただ思うことは、私はどこまで超越論的に存在しているということであり、それ以上でもそれ以下でもない、ということである。
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