It's penalty life

2006-08
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060822

夜勤にて胃痛が激しかったので胃カメラ検査。
結果は良好だった。超音波検査もOK.
医者は問題ないと言ってた。
後はピロリ菌の検査だけ。たぶんスルーするだろう。

医者も原因が分らなくて困ってた様子。
そこで自分から「ストレスですかね?」などとは言ったら駄目だ。
まだ全ての客観的証拠はでていないし、そもそもストレスが原因ってストレスの原因は何かとなって、内科から精神科に回されるだけだ。
精神科の診断とかは信用できないしなぁ。

病院の治療は、特定の個人の症例を一般に分類されている症例に当てはめて、その治療方法を決定しているが、精神科のみは確実な症例が現れるとは限らない。
自分が病気だと思いたくないとか、そういった作用によって質問に対する答えが変化するだろうし。つーか、病院という環境が患者にとって本心を話せる雰囲気なのかも疑問だし。
そしてそう思ってる俺が精神科行っても効果は薄いだろうな。

まだまだ胃の痛みは消えそうにないなぁ。
胃が痛いという思い込みということにしておくかな…
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私的言語

私的言語はウィトゲンシュタインが考察の対象にしたもの。

私的言語とは自分にしか通じない言語のこと。
前々から考えていたが、私的言語について考察する行為が理解できなかった。

ウィトゲンシュタインによると、言語の定義は「言語の使用方法」であるとしている。その言語がどのように使われるかが、言語に意味を与えている。そして人はそれを理解することによって言語を理解する。

元々、辞書を調べてみればわかるが辞書を調べても最後は同じ単語を循環して調べるように、言語には「正しい意味」は存在しえない。人はその使用方法を見て理解している。

ウィトゲンシュタインは私的言語は不可能であるとしている。
私もこれに同感である。
自分にしか通じない言語には、その使用は自分以外誰にも理解できないし、そのことを言語にする理由がないからだ。使用を理解できないものとして言語とは言えないと考えられる。

そしてこの考察は私的言語は独我論に対して、考察または他我存在の証明に関して行われていると考えられる。
私的言語が存在しないことは、言語を理解してくれる他者の存在が必要である。
ここで他者に理解してもらいたいとは思わない、という主張はおかしい。本当にそう思うならば、何も語る必要がないからだ。つまり何かを主張している時点で他者に対して自身の言語を使用しており、さらに他者の存在を必要としていることを示している。

言語の存在自体が他我の存在証明となり、言語を理解し使用することが世界劇場における自我の存在の証明方法の一つである、と考えられる。

生ー政治

フランスの哲学者フーコーは、
「生かし続けることを基本的な手法として採用している政治」のことを
‘生ー政治’と表現した。
これは政治が人を生かし続けることを基本原理とし、それに則って政策を実行する政治手法のこと。

‘生ー政治’は今日の政治手法の主流であると考えられる。
自分が思うのは、「多くの人はこの手法に疑問を持つのだるうか?」ということだ。自分自身は大いに疑問がある。

まず、なぜ「生きる」ということが重要だとしたのか。
その根拠はどこから来ているのか。
この根拠は決して道徳的な理由から来てるわけではないと考えられる。

社会にとって価値のあることは、「機能的であること」や「生産の役に立つこと」であり、ここから「生きること」や「健康であること」が価値があるとされていると言える。

社会のために‘生ー政治’はある。
つまり社会は、そこに存在している人々に「生きること」を強要し、それによって管理している。これは社会が「生きること」を使用して、人々を管理しているとも考えられ、‘生ー政治’はそれ自体、道徳的ではない。

さらに不思議に思うのは、「生きること」に価値がある、ということを自分の価値観に取り込んでいる(内在化させている)ということだ。
別にこの行為が悪いと言いたいわけではない。
重要なのはそれが社会によって内在化させられた、という経歴があることに注意すべきだ、と言いたい。社会の価値に従うことは常に正しいとは思えないからだ。

今の社会においては、極端な延命治療や自殺の否定が当然の様にまかり通っている。しかしながら、これらの理由は「生きること」に価値がある、というだけであり、それ以上の対話を行わない。
何故、「死」を選ぶ自由が無いのか。これが自分には理解できない。

話を元に戻すと、内在化が悪いわけではない。
だが、‘生ー政治’が正しいとは言えない。‘生ー政治’が正しいのであれば、今の世界は理想郷となることができるはずである。しかしながら、こうしている瞬間にも社会の福利を得る人が死に、何もせず惰眠を貪り、しかしながらそれに一瞬だけ反省したつもりになり、結局言うだけで何もしない人間が、社会においては大多数であり、自分もその中の一人でしかない。

この‘生ー政治’という概念は正しいとは言えない。
もっとよりよい方向に社会を改変していく必要があると言える。

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