It's penalty life

2018-05
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異他性

『これが現象学だ』 谷徹、から引用および要約
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フッサールの「デカルト的省察」での他者論は、異文化の他者の議論に繋がっている。
この異文化の他者の問題は現象学的他者論において重要であり、詳しく見て見る。

自我と他者たちは、行為や言語などのコミュニケーションによって相互理解し、共通の精神世界=文化世界を形成し、なじんでいる。新たな他者が現れた場合も、私たちはこの延長線上で他者を理解するだろう。

フッサールはそうした共通性を持たない他者の可能性を認めている。つまり、「同じ一つの世界に属する人間達が、互いに関係の薄い、あるいは互いに全く関係のない文化的周囲世界をそれぞれ具体的なもろもろの生活世界として構成している…」といった可能性は排除されない。

ここで一方では「同じ一つの世界」と、複数形の「もろもろの生活世界」とが語られている。世界の唯一性を考えると、この両者の関係は、現出者と諸現出の相関関係のバリエーションとして理解されるだろう。

しかし他方で、この問題提起は上記の事に内容全てが含まれてはいない。他の文化的共同体に属する人が、私とは異なる周囲世界を構成しているのであれば、私は、その人に始めてであった時には、その人が構成している世界を知らないのであろうか。行為、もしくは言語すら私が理解できない状況もあるだろう。

この時、理解不可能性が登場する。そして、理解不可能性によってこそ、その人がまさに自分とは異なった世界を構成している他者であるということが経験される。この時に、この他者の異他性が噴出してくる。理解出来ないということは異他性の特性である。
--------------------------------------------------------------引用ここまで

この前には世界が対称とは異なる不思議な性質を持つことが現象学的に説明されている。
(世界の<存在>のほうが対称の存在よりも存在論的・超越論的に先行する。)
そちらも面白いので興味がある方はどうぞ。

ここでは異他性について記されている。
これを用いて他者論の展開を行っている。

個人的に面白かった部分
・コミュニケーションは文化依存。日常的に見ても当然だが。
 人は自身の悪癖を取り除けない理由の一端を担っていると思える。
・「同じ一つの世界」と「もろもろの生活世界」の表現。
 自我の孤独性と他我の複数性と両世界のある種の絶対的隔たり。
 しかしそれらの相互理解の可能性は日常的に示されている。
 また、フッサールも相互理解の可能性を明言している。
・異他性を一つの特性としたところ。
 臭い物に蓋をする日本人的発想では、重要項目とは捉えきれないだろう。

経験から得られるという発想を徹底させているため拒否反応がない。
確かに先験的な説明はどこかに不安定さを残すが、この手段はそれほど違和感がない。
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